こんばんは。
どうも自分は社会生活に向いていない。
最近職場でよく叱られている。誰に叱られているかというと上司の上司、管理職にあたる人だ。
例えば先日はお客さんに見せる資料を作成したのだが、
「この書き方だとお客さんに伝わらないだろう、もっと考えろ!」
また、業績評価に使う業務予定表を提出したときにも
「もっと書くべきことがあるだろう!」
などなど(万が一のバレに備えてあえて抽象的にした)。まぁ指摘内容としてはごくごく妥当なものである。
ただ、職員の中で私にしかお説教モードが発動することがないように思う。
その上司は今でこそ管理職だが、昔は今私がやっている仕事を専門としており、専門家として立場が高い。それもあり厳しく見られているのかもしれない。
正直叱られて良い気分ではない。叱られる場所は変動するが、他の人に見られるのは嫌だな。ちなみに上にあるお𠮟りはデスクでされたので職場の人に伝わっている。ちょっと恥ずかしい。おかげさまで仕事に関してはプライドのプの字もない。
叱られている様を見て周りの人間は
「期待していない人には説教なんてしないよ。君は期待されているんだよ。」と励まし(?)の言葉をかけてくれる。その言葉を文字通り受け取れば私はその上司に期待されていると解釈することになる。しかし本当にそうなのだろうか?
確かに期待していない人間には説教もしなければ声をかけることすらしないというのは分かる。私も前の事業所ではテコでも動かない同僚に対して見切りをつけた。声をかけることもなくなった。サンプル数1だが、実際にそういうことは他でも多いのではないだろうか。
仮に①「期待していない人には説教しない」が正しいとすれば
対偶②「説教されるのは期待している人」も正となり、上にある周りの言葉が信憑性を持つ。
ただ、それは正しいとした場合だ。①が正しい前提である保証はない。人には感情がある。ストレス発散のために叱っている可能性は排除できない。
屁理屈をうだうだ言ってもしょうがない。結局相手を見ながら自分で判断していくしかないよな。
そしてそんなことを見抜ける見抜けない自体はどうでもよくて、結局自分の行動を改めていくしかないのだ。そう思うと、周りの人が言うように、期待されているから叱られているんだと思うことにした方が精神が安定するかもね。
どっちでも変わらないならば良い方に解釈する。そういう立ち回りができると社会でしなやかに生きられるのかなーって思った次第。
叱ってくれてありがとうとまでは今はまだ言えないけどね。