正しい年の取り方

人生に迷うアラサー男が年相応になるまでの雑記

なぜ我々は無敵の人対策を考えるのか

こんばんは。

 

今日は衝撃的なニュースが世間をにぎわせた。私の職場でも仕事中におばちゃんがスマホを見ながら「大変な事件が起きたわ」と言い出し、一体仕事中に何を言っているんだろうと思っていたが、実際に大変なニュースだった。昼休みにはテレビの前に職員がわらわらと集まってあれやこれや言いながら意見交換していた。

mainichi.jp

この事件について語られる感想(?)は「他の子供のことを考えた取材をしてほしい」、「どうやって子供を守れば良いのか」といったもの。他にもいっぱいあるけど、これらはもっともな意見だと思う。

ソースは確認できていないが、校長先生が強く「子供を撮らないで」「インタビューしないで」と言ったらしい。個人的にはわざわざそんなこと言わないといけないようではマスコミのモラルが崩壊していると思う。

 

それらの中で特に印象に残った主張が「無敵の人を生み出さないような社会的なセーフティネットが必要」というもの。要は無敵の人が生まれる前に対策が必要だという意見。今回はこれについて思っていることを書きたい。

 

率直に、三者の目線でいる限りは難しいんじゃないかなと思う。

 

Twitter上ではこの「無敵の人」という言葉がよく流れてくる。この文章を書いている間にもトレンド入りしている。

この無敵の人という表現は今に始まったものではない。むしろ、ずっと以前から使われていた気がする。意味としては社会的に何も失うもののない人を指す(んだと思う)。

 

さて、そんな無敵の人論議を眺めていて気付いたのだが、なぜここで「無敵の人」を語る人は「無敵の人を生み出さない社会」などと言ってあたかも自分がそうならないかのような言いぶりをするのだろう?

自分が無敵の人になることはないと言っているように聞こえちゃうんだよな(そのような気持ちが実際にあるかは文章だけで分かるものではないが)。そしてそういうことを言う人たちは恐らく無敵の人にならない。

「無敵の人」になりうる層とならなそうな人の間には社会的な分断がある。そんな気がしてならないのだ。

 

だってそうじゃない?自分もなる可能性があったら「無敵の人が生まれないようにしないといけない」なんて三者な感想ではなくて「自分が無敵の人にならないように」とか出てきそうじゃない?

 

こういう風に論ずる人たちを悪いと言いたいわけでは全くない。言っていることは断然正しい。ただ、その姿勢からは無敵の人が生まれるプロセスを理解できないと思う。そしてそのプロセスを織り込んだ対策でないとうまく作用しないのではないか、第三者目線を捨てるべきではないかと思う。

 

無敵の人にならない層は社会(Twitterとかもあえて含む)で声を上げることができるけど、無敵の人予備軍とも呼ぶべき人たちは社会とのつながりが極めて薄い(失うものがない状態)ので声を上げることもできない、あるいは上げても誰も聞いてくれない。社会的に中途半端で目に見えない弱者だと思う。障害者みたいな目に見える弱者ではなく、救いきれなかった層。きっと強者からも弱者からもその気持ちは理解されない。

 

多分セーフティネットを講じることになっても、担当者は無敵の人になることのない層なんじゃないかな。だから理解が甘く、どこかピントのずれた対策に終始してしまうのではないか。そんな漠然とした考えが頭を離れない。

 

例によってオチはない。