正しい年の取り方

人生に迷うアラサー男が年相応になるまでの雑記

誰が言うかで印象は変わる

誰がどう発言するかって大事なことだと思う。

「本当に頭が良い人は誰にでも分かるように説明できる」といった言葉を聞いた経験はないだろうか。私はこの言葉が好きではない。少なくとも自分からは使わないように心がけている。

 

この言葉を発する人ってのは大体何かしらの説明を受けたときに理解できなかった人である例が多い。

 

正直気持ち悪いフレーズだと思う。

 

そう思う理由は2つ

①自分の理解力を棚に上げている

②自分より理解力あるいは理解する意思が強い人に対してマウントを取れる

 

①について。「分かる」かどうかは発言者次第である。教わっているのに、なぜ上から目線になっているか分からない。

②について。説明する側は少なくとも発言者よりも理解しており、過去に理解しようと努力したかもしれない。それを尊重しないで自分が理解できるかどうかという評価軸に持ち込むのは卑怯にも感じる。自己中。

 

自分を守りながら相手を責めている感じがする。

 

この言葉を世界で初めて使った人は最高に気持ちよかったに違いない。なにせ自分が理解しようとする努力抜きに、相手を評価する側に回れるのだから。

 

でもこの言葉も発言者が説明の様子を見ていた第三者だったら受け取り方は異なる。

三者からすれば説明を理解する必要がないし説明者を責める必要もない。利害の絡まない第三者の発言は真摯に受けとるべきだと思う。

 

なんでこんなことを言い出したかというと、私の職場での「仕事が出来る」という評価のされ方に違和感を持って、そこから連想したからだ。

 

私の職場では「仕事が出来る」というのはどうやら他人の失敗をカバー出来ることを指すらしい。

例えば顧客の提出書類が締め切りに間に合わなくても、なんとかして帳尻を合わせることを仕事が出来ると表現しているようだ。

 

それだけだったら別に気にしないのだが、失敗した人間が「仕事が出来る」「仕事が出来ない」という評価を下しているのだ。上の例で言うと、締め切りを守らなかった顧客が帳尻合わせに対して「お前らは仕事が出来る」と評価し、帳尻合わせが出来なければ「お前らは仕事が出来ない」と評価する。

 

だが、帳尻合わせの必要が生じるのはそもそも顧客が締め切りを守らなかったから。

簡単に言うとお前が言うなという話である。

 

別に私の例に限らない。

子供が誰かに迷惑かけたとして、「子供のやったことですから」と言うのが迷惑をかけられた側や仲裁に入った第三者であればまぁ分からないでもないが、その子供の保護者がそう言うのは責任感が欠如しているとしか思えない。

 

誰が発言するかって大事だと思う。