正しい年の取り方

人生に迷うアラサー男が年相応になるまでの雑記

他人の金で食う飯は美味いと断言するために

こんばんは。

 

今日は別部署の昼食会にお呼ばれして奢ってもらった。全員で7名だったと思うのだが、よくもまぁ部署の長は関係のない私まで奢ったものだと思う。やはり持つべきは財力か。感謝が止まらない。圧倒的感謝!圧倒的皮下脂肪の成長!

 

さて、食べ終わった後にポツリと言葉がこぼれてしまった。

 

「やっぱり他人の金で食う飯は美味い」

 

これが聞こえた隣席の人から「君は世渡りが上手そうだね」と返された。良くない発言だったかな、と思いながら話していると、どうもその人は一抹の罪悪感じみたものを感じたらしい。

 

ここで一つの疑問が生まれた。私は他人の金で食う飯は美味いと思ったわけだが、その一方、心から美味いと言えない人間もいたわけだ。この違いがなぜ生じたのか。それを考察したいと考えた。

 

違いは見え方だ。

前提として、食べるメニューの美味しさ(満足度)が等しいものだと仮定する。ここでは1,000と表記する。

 

私にとってはこう見えている。選択肢が2つあるのだ。

 

①他人に奢ってもらう⇒得られる満足度は1,000

②奢ってもらわない⇒得られる満足度は0

この条件だと当然①を選択する。コストではなく、その選択肢を選ぶことで得られる利益のみを考えている。②を選ぶのは機会損失にしか見えない。

 

対して彼にはこう見えているのではないか。

 

①他人に奢ってもらう⇒得られる満足度は1,000、コストはx(任意)

②奢ってもらわない⇒得られる満足度は0、コストは0

そして、①を選んだ場合の満足度は私と同じ1,000ではない。満足度1,000からコストを差し引いて考えているのではないか。ここで言うコストとは「費用を踏み倒すことに対する罪悪感」などを含む。

 

そうであれば私のように断言しないのも分かる気がする。何せ、私よりも奢られたときの満足度が低いからだ。

 

では、私がコストについて思い至らなかったのはなぜか。それは立場の違いである。

今回の私への奢りはお礼の意味を込めたものだからである。仕事を手伝ったことに対するお礼の意味があった。

 

つまり、過去の自分の労働に対する報酬だからそこには罪悪感はない。

あれ、あんなに悩まされたのに1,000円のランチ?と思わなくはないが、機会費用の考えでいけば私はそこを考える必要はない。

 

理由のある奢りは受容し、理由のない奢りには警戒しているだけなのかもしれない。

 

でもね、どうせなら他人の金で食う飯を美味しいと心から思うべきでしょ。せっかく奢ってくれてるんだし。だから周りに対して常に親切にして、奢られたときの罪悪感を事前に払拭すればいいのだ。

 

もっとも、話に出てくる彼が罪悪感を本当に持っているかはわからないし、持っていたとしてもその部署で一番頑張っている人だからそんな風に思う必要はない。

ちなみに私は「他人に奉仕した」と感じる閾値が低いので奢られても罪悪感はないし、その姿勢は一周回って良くないんだろうなぁ。