正しい年の取り方

人生に迷うアラサー男が年相応になるまでの雑記

負け戦に挑めない性分を改めるために

こんばんは。

 

最近、自ら物事に挑むことがなくなった。いや、最近だけでは済まないかもしれない。結構前からかも。特に負け戦(負けると決まっている戦い)は挑まなくなった。

 

その原因は自分に自信がないことで、他者を通してしか自分の価値を信じられていないからだと思う。

そして、その考え方を矯正する必要がある。

今回の記事は私のように負け戦に挑めないような人に読んでもらいたい。

 

負け戦に挑むとは

その前に「負け戦に挑む」とはどういうことか、この記事内ではどう扱うのかもうちょっと掘り下げたい。

私は戦いとは負けが分かっていても、負けて良いわけではないと思っている。だから、「負けてもいいやー」というような姿勢で戦いに臨むのは挑んでいるわけではなく、ただやっているだけだ。

 

「負け戦に挑む」とは負けが見えている戦い(あとに触れるが、うまくいかなそうな物事一般を指すことにする)に対して能動的にきちんと向き合うこととする。

 

負け戦に挑めなくなった

私は将棋が趣味だ。何回も引退しているが、趣味なのだ。

そんな将棋だが、自分から他人に挑んでいないことに気付いた。

 

例えば非大会の場では強い人とあまり指さない。指すことはあっても「勉強させてもらおう」という「負けても仕方ない」気持ちに似たものがある。

 

一方、将棋大会では強い人と指すことはあるし、「倒してやろう」という気持ちで指している。だが、これは挑むとは微妙に異なるものだと思う。なぜなら大会であたるかどうかは運しだいだからだ。自ら挑戦しているわけではない。機会を与えられ、それに乗っかっただけ。

 

運しだいでマッチングする大会のときにしか強い人を「倒したい」という気持ちは発揮されない。大会に出た時だけ強い人と指すのは能動的とは言い難い。

 

挑戦して断られるのが恥ずかしい、負けたら恰好悪いという気持ちが心の奥底にある。特に前者は強い。

 

そんな私だからこそ、将棋ウォーズは続けられるのだろう。

自動でマッチングするから声をかけて断られるような恥をかくこともなく、格上も格下も戦う理由を運に押し付けられる。

能動的に相手に挑まなくていい将棋ウォーズは心地いいものになっていた。

対して将棋俱楽部24や81dojoは足が遠くなってしまった(81dojoはもともとそんなにやってないけど)。

 

また、婚活(笑)やSNSの使い方にもこの姿勢は滲み出ていて。

 

例えば婚活では自分が良いと思える相手ではなく、「付き合える可能性があるのでは?」「自分でも釣り合うのでは?」と感じた相手にアプローチするようになった。

 

ペアーズでいいねを送るのもいいねを返してもらえそうな人。

本当に魅力的だと思った人には送れていない。

 

失敗して時間(+手持ちのいいね)を無駄にしたくないからだ。「やはりマッチングしなかったか」と落胆したくないからだ。

 

いいねって何なんだろうね。

 

やや昔、知人のメンヘラに「婚活してて本当にその相手を好きになったことある?なさそうだよね」と言われたのを思い出した。

 

拒絶されるのが怖くて挑めなくなっていた。

また、相手を選んでいても心の中で相手が自分に好意を持つかどうか、ということに対する比重が大きくなってしまっていた。自分が相手をどう思っているかや相手の気持ちなんて後回し。

脈アリ/ナシの判定を過度に気にする人も同じ気質があると思う。

 

SNSもそうだ。

Instagramはフォロワーを増やす実験で始めた。

Instagramではフォロワーとの交流がフォロワーを増やす鉄則だが、コメントを送る勇気が持てない。来たコメントに返すのみ。

 

それはなぜかというと、送って無視されるのが怖いから。

受け取ったものを返していれば体裁が整う。受け身でいいと思ってしまう。

それが成功(ここではフォロワーを増やすこと)から一番遠い姿勢なのに、居心地はいいし、絶対恥をかかずにすむからやめられない(はじめられない?)。

 

なぜ挑めないのか、その心情

原因は冒頭にも述べたけど、自信がないことだろう。

もっと言うと、他者(あるいは客観的に分かる数字)をものさしにしてしか自分を評価できていないから自信が持てない。

そしてそんな自分の姿勢を心の奥底では認められていない。本当は嫌いなのかもしれない。でも自己愛は強い。嫌いと愛しているって矛盾しないんだね。

 

他人からどう見えるか気になってしまうし、そのくせ他人がどういう気持ちになっているかなんて気にしない。

 

ものさしが他人だと時がたつにつれ、ぶれていく。だから客観的に分かる数字もものさしにしている。

 

だから資格を取るのが嫌いじゃないのかもしれない。資格は残るから。

偶然とはいえ将棋は段位もあるし、客観的数字として機能する。

 

常に他者や数字と比較してしまい、故に自信にはつながらない。

自信がないから、自分が傷つくことを想像して挑まなくなる。保身に走ってしまう。

保身の結果、負け戦には挑まない。挑まないから現状維持(あるいは下降)が限界となり、先行していく他者と勝手に比較して自信がなくなる。

 

これ悪循環だよね?

 

ものさしを持つこと自体が良くないような気がしている。

 

負け戦に挑むようになるには

今のままでは悪循環が続いてしまう。

 

まずは染み着いてしまった待ちの姿勢を治すところから始める。

当たり前のことだが、何かにつけて自分から挑む。それこそいいねの無駄打ちもするし、SNS上で気になる人や投稿にはコメントをつける。

 

もしかしたら何の反応もないかもしれない。それは今までの私にとっては恥ずかしさや痛みを伴うのだが、それらに耐性をつける。

 

そして成果ではなく、自分が主体的に動いたその姿勢を評価し認める。挑むことこそが誇らしいことだ。

負けの定義を「挑まなかったこと」に書き換える。

加えて、他人と比較しないこと、数的な目標を持たないことを徹底する。

 

これらは今までの私の考え方とは異なるもので、すぐにはシフトできないかもしれないが、努めていきたい。

 

例によってオチはない。