こんばんは。
「ケーキの切れない非行少年たち」という本を読んだので感想を書きたい。
著者である宮口幸治さんの医療少年院での勤務経験をもとに、非行少年の特徴やそうなる兆候、そして改善策を提示している。
私はこの本を読んで3つの感想を持った。
「非行少年」という言葉に対する先入観が壊された!
教育とは何なのか?
果たして他人事なのだろうか?
上の感想に触れながらこの本の構成と超超超ざっくり説明したい。
大まかな章立てとキーワード
第1章ではそれ以降の章の話並びにこの本の目的について述べ、第2章からは非行少年の事例・特徴、なぜ見過ごされてきたか、現在の教育の問題点、そしてどう改善すればよいのか、という構成になっている。
この本のキーワードは認知機能だと思う。
本文から認知機能について引用すると
認知機能とは、記憶、知覚、注意、言語理解、判断・推論といったいくつかの要素が含まれた知的機能を指します。人は五感(見る、聞く、触れる、匂う、味わう)を通して外部環境から情報を得ます。そして得られた情報を整理し、それを基に計画を立て、実行し、さまざまな結果を作りだしていく過程で必要な能力が認知機能です。
ケーキの切れない非行少年たち 49Pより引用。
認知って言葉は精神医学と心理学の分野で意味が異なるみたい。ここでは精神医学の用法。
「非行少年」という言葉に対する先入観が壊された!
第2章の事例を見るに、非行少年の特徴として①ケーキが3等分できない、②簡単な計算ができない、③漢字が読めないと、総じて認知機能が低いことが分かる。
私には彼らが五感で感じ取っている世界が分からなかった。ただ、彼らにとって社会が生きづらいことは想像できる。
非行少年の特徴は大きくまとめると認知機能の弱さ、感情統制の弱さ、融通の利かなさ、不適切な自己評価、対人スキルの乏しさの5つに、身体的不器用さがプラスされている。
これらがイジメや被害感、ストレスの原因となる⇒非行に走る という図式。
この本を読むまで私は非行少年という言葉から、一般人には理解できないような倫理観や想像の出来ないことを考えて行動しているのではないかと思っていた。
しかしそういった非行少年よりも何も考えていない、むしろ認知すらできていない子供たちが多いという事実。
非行少年という言葉からは「加害者」感がにじみ出るんだけど、その実、本来は社会が守るべき対象だったというのは素直に驚いた。弱者が加害者になっている。
教育とは何なのか?
社会スキルが高ければイジメや被害感につながらないんだろうけど、学校で系統立てて教えているわけではない。
しかも、支援手段としてのソーシャルスキルトレーニングは受け手の認知機能が正常であることを前提に作られているため、そもそも認知機能に難がある場合は有効に働かない。
そこで本書は最後の第7章で認知機能を高めることが先で、その手法の一つとしてコグトレというものを提示している。
その前の第6章で褒める教育の良くないところを挙げているんだけど、教育の意義について考えさせられた。
「褒める教育は逆に子供の可能性を奪ってしまうのではないか。問題を放置して出来ていることを褒めても問題の先延ばしでしかないのではないか」という主張が本書ではされているわけだが、これがまた妙に腑に落ちた。
良い所を見つけて褒めることは、対象に対して具体的に将来を示せているわけではないし、ピントがずれていると思う。
「遅刻しないで偉い」
「縄跳びがとても上手になったね」
勉強ができない子供にそんな言葉をかけても何も状況は変わらない。お腹が痛いのに頭痛薬を与えているようなものだ。
もっと言うと、できないことのせいで自尊感情は低下するかもしれないし、できることだけに目をやると過度に向上するかもしれない。
他人から見た自分との乖離が大きくなるのではないか。
そういったことから、教育の意義とは良い所を伸ばすより、できないところの底上げなのではないかと思う。できないところが解消される形ならば自尊心の高低も安定する。
果たして他人事なのだろうか?
この本は「非行少年は認知機能が低いから世界が歪んで見えるし、他者とはうまく付き合えない」といったことを説明しているが、一般の人であっても加齢による認知機能の低下は避けられない。
そう思うと他人事としてスルーできない。程度の差こそあれ、将来の自分の可能性としては否定できないよね。
実際、20代の現在でも、10代のころと同じ世界が見えている自信はない。
認知機能の向上、とまでいかなくても認知機能の維持は高齢者にも必要なことなのではないだろうか?
怒りっぽい老人は実は五感を通した情報の受け取り方が歪んでしまっているために怒りっぽくなっているのではないか?
などなど、考えが浮かんできてしまう。
例によってオチはない。