日本はセルフスタイルの食堂だ。
セルフスタイルの食堂っていうのは、並べられたおかずを数品取ってトレーに載せて最後に会計してもらうタイプの食堂(伝われ)。あれ、結構調子乗ってあれこれ頼んで予算オーバーすることない?
不思議な喩えかもしれないけど、お客さんを日本国民、出される品を政策や公共物と捉えるとそんな気がしてくる。
どんなメニューがあるかは自分で見て判断すべきだし、取る取らないもそう。そういう自由で、客にも責任があるつくり。私は良い仕組みだと思う。
それなのに高級レストランと同じようなレベルでお客様扱いしてほしい人(日本人)が結構多いと思う。
メニューの値段が書かれているのにそれが視界に入らない。
いい品でもちょっと不備があればクレームを出す。
自分で選ぶ形式なのに「私の予算、好みに合わせてあなたが見繕って」と店員さんに言い放つ。
そんな感じ。
そう思い始めたのはコロナウイルスが流行するより前だが、流行してからはなおさら思うようになった。日本人、というと主語が大きすぎる(あるいは小さすぎる?)気もするが、日本人に見られる特徴は3つある。
この3つの詳細と日本人にどうあってほしいかを書きたい。
①空気≧論理
水素水なんかもそうだと思うんだけど、直近でいうとコロナウイルスが流行り始めてからのトイレットペーパーの買い占め。
後期の買い占めはもう止まらない、仕方ないんだろうとは思う。でも初期の買い占めがなければこんなことにはならなかったのではないか?
「なくなりそうだから、とりあえず買ってきたわ」
なんて言いながら買っている人、呆れるほど見てきた。
でも少なくとも買い占め初期ではトイレットペーパーの原材料がなくなる見込みはなく、普通に考えたらトイレットペーパーは不足しない。
それでも買い占めに至ってしまったのは空気感で動いているからにほかならない。
未来の歴史の教科書に「石油ショックでもコロナショックでもトイレットペーパーが買い占められました」なんて書かれるの、何も進歩してなさそうで不名誉じゃない?
②情報ソースが狭い(わかりやすいものを優先)
噛み砕いた情報ばかり欲しがる人が多い。噛み砕いた情報を発信する人しか信じないというのもよく聞く話。
そういう人って「頭のいい人は分かりやすく説明するのも上手い」なんてことを主張している層と大体一致している(少なくとも現実の人間関係の世界では)。
それはそれで正しいと思うんだけど、そう思う人って説明を受ける側の理解力のあるなしが影響することを全く考えていない。理解力の高い相手なら普通の説明でも上手い説明でも伝わるし、逆にどれだけ上手く説明しようと理解力の低い方には全く伝わらない。なんで責任がいつも発信側に偏っているんだろう?と常々思っている。
ちょっと話がそれたけど、信じたい情報ソース、とりわけ分かりやすく、面白く伝えてくれるものばかりを大事にする傾向はいかんと思う。いつまで離乳食ばかり食べる気でいるんだろう。
③主体性がない
②で触れた発信側に責任が偏る理由の一つとして主体性がないからではないかと思う。情報のやりとりを一方通行的にとらえているから発信側に責任が寄ってしまうのではないか。
コロナウイルスの流行から、一般人(?)からの「苦しい人は~保険を活用してください」なんて言葉をよく見るが「なぜ政府はそういったことを教えてくれない!わざとに違いない!」という返しもよく見るわけで。
いや、知っとけや。なぜ自分で調べない?
上のセルフスタイルの食堂で言えば、メニューがあって値段も書いてあるのに、視界に入らなかったからお店が悪いと言っているようなものだ。
政府が何かしたらその不備に対してケチつけるし、何もしなければそれはそれで叩く。叩くための二段構え。受け身体質が見て取れる。
最後に言いたい
ケチつける前に自分で動いてみよう。もちろん、全部自己責任と言いたいわけではない。が、いつまでも受け身でいたところで何も改善されない。
複数のソースをもとに情報収集、それらをもとに論理だてて考え、空気に流された行動をとらないということをこのような事態だけでなく、平時から気を付けなければならないと思う。
それができないと日本は本当に生きづらくなると思う。
「外出自粛」って表現では分からない!具体的に示せ!っていう人も主体性のない人だと思っていて、自分で判断できないんだよ。③主体性がないから制限してほしいっていうことだと思う。そういう人ばかりになると、政府が決めてあげないといけない=国民の自由を制限ってことになる。自由には責任がセットなんだよな。
例によってオチはない。