正しい年の取り方

人生に迷うアラサー男が年相応になるまでの雑記

「セックスボランティア」読書感想文

こんばんは。

 

今回は「セックスボランティア」という本を読んだのでその感想を書きたい。

 

なぜこの本を読もうと思ったのか。図書館でたまたま見つけたからというのもあるが、それだけではない。

元々セックスボランティアという言葉自体は知っていたが、その活動について知らなかったからだ。障碍者の性に関する問題ってTwitterとかでもあまり流れてこないし単純な好奇心があった。

 

ja.wikipedia.org

 

 

読む前

読む前は障害者はきっと性欲がないか、あるいはそれに目覚めると一生囚われしまうのではないかと思っていた。

私自身、性的なことを知ったのがエロ本、エロDVDなど(妙な時代感がある)だった。それら外的な情報を得て性的なことを知っていったわけだが、障害者の方々はそういったものに触れる機会が私たちより圧倒的に少ないと考えていたからだ。

つまり、性的に目覚める要因が本能くらいしかないのではないかと思っていた。

だからセックスボランティアも例えば男性の勃起を治める程度なのかなと思っていた。

 

読後の雑感

読後の感想としては、この本で語られていたのは愛だった。「障害者の性」に対する個々人の姿勢とは、その人自身の性愛に対する姿勢を鏡写しにしたようなものなのだ。印象に残ったのが第1章、第2章、第4章だった。これらを中心に触れたい。

 

第1章

第1章では脳性麻痺のある高齢男性の話。名前は竹田さん。彼は介助者の助けを得ながら年に一度ソープランドへ行く。彼にとって酸素ボンベは生命線だが、それを外し、己の命を賭しながら風俗へと向かっている。

 

彼にとっては性愛こそが「生きる」ということだった。

 

彼が風俗に通い始めたのはかつての恋人が亡くなり、それを忘れるためだった。その恋人は彼が病院にいたときに面倒を見てくれた看護師だったのだが、離れ離れになり、難病を持った彼女は鉄道自殺を図り、亡くなった。名をみどりさんという。

 

この第1章では著者と介助者とこの竹田さんの3名で彼女の墓を探し出し、彼に墓参りをさせてあげることができた。彼が初めて彼女に「好きだ」と言えたのは墓前だった。この二人はキスまではした。しかし、彼自身の障害者である自覚がそれ以上を、「好きだ」と伝えることさえもさせなかったのだ。

 

この章では障害者の介助者が性欲の処理をしているという記載もあるのだが、これには驚いた。2004年に発刊された本なのだが、当時これに対する読者の反応は今の私以上だったのかもしれない。

私にはオナニーの介助までできない。理由としては2点。①単純に他人の局部を触れない、②自分が介助される側だと想像すると恥ずかしくて辛いことだからだ。

そういう意味では、竹田さんが介助者に風俗へ連れて行ってくれと言ったのはとても勇気のいる言葉だったのだと思う。

 

ここからは想像なのだが、彼女に出来なかったキスのその先を風俗でやるのは、残りの人生を生きる意味だったのではないか。彼女がいなくなってしまった世界で生き続けるにあたって意味を見つけたかったのかもしれない。

 

「もっと したかった でも こんな からだ だから かのじょ の ふたん になるから」

竹田さんは十五年間の交際の中で「好き」という言葉さえ口にしなかった。ただ、「早くいい人を見つけて嫁さんになって」と会うたび繰り返していたのだという。自分が障害者であるから、どんなに好きであっても、口に出してはいけないと心に決めていた。本当の恋であればあるほど、言わないことが彼女のためだと思っていた。

セックスボランティア」P30~31より引用

 障害を持っていることが心の障害になったわけだが、もし障害がなければ、あってももっと踏み込んでいたら世界は変わっていたのかもしれない。

こういうのを読むと障害者は慎ましいなと思ってしまう。もちろん全員が全員そうではないと思うけど。世間以上に「障害者だから」っていう意識が強い。

 

第2章

第2章では脳性麻痺の手足が不自由な男性が主役。名前を葵さんという。基本的には排泄も食事も他人に頼らないといけない。そんな彼はネットを通じてセックスボランティアを探したことがある。

2名の女性にセックスボランティアをしてもらったが、その関係はそう長く続かなかった。

そのうちの1名である小百合さんは旦那も子供もいたが、自身の主宰するNPO法人で障害者から性の悩みを受けたことからセックスボランティアを始めた。

葵さんとのボランティアの関係が続かなかったのは家庭があるからではない。周囲の理解が得られなかったこと、そして葵さんとキスできなかったことだ。

NPO法人のスタッフには性の支援を反対されるし、志願してくれた主婦2名がいたのだが、彼女らも周囲から反対にあい疎遠になった。そこから生まれた落胆、そして自分の取り組みの限界を感じたことがセックスボランティアを辞めることにつながった。

 

葵さんはその数年後結婚を果たした。相手は障害者ではない。お互いの両親からは反対されたが、それでも結婚した。

 

第1章と異なり、こちらの方がより性欲に忠実な気がする。竹田さんはみどりさんの死によるショックを忘れるために風俗へと行き始めたのだが、この葵さんは性欲が始まりである。男としては共感しやすいところ。だが、この章で特に注目すべきは小百合さんの方だ。彼女のセックスボランティアを辞めた経緯にセックスボランティアと性愛の決定的な違いが現れていると思う。

 

「心から愛している人にしかしてはいけないものでしょう、キスって。でも、キスさえ応じてあげられずに動揺している自分にも悩んだんです。こんなんじゃ資格がないかなあと」

セックスボランティア」P57より引用

 

セックスボランティアでは愛をこめられないということだろう。もしかしたら性のハードルよりも愛のハードルの方が高いのかもしれない。

ちなみに、葵さんは小百合さんらとの行為について、結婚後に以下のように述べている。

 

葵さんが、

「終わった後にぃむなしくなるのはぁセックスボランティア、むなしくならないのはぁ、奥さんかな」

とおどけて言うと、ゆかりさんが言葉を返す。

セックスボランティア」P57より引用 

 この二つの言葉には関係がないようには思えない。愛のあるなしが違いなのだろう。

 

私はもし自分の彼女がセックスボランティアをしていたら嫌だなと感じた。例えそこに愛がなかったとしてもだ。そういったパートナーの気持ちを想像するだけでもセックスボランティアに志願しにくくなると思う。

読み進めていくうちに自分の性愛に対する姿勢を理解できた。自分に対する発見が増えていくんだよな。

 

第4章

第4章では先天性の股関節脱臼で両足の長さが異なる女性が出張ホストを使う話だ。彼女の名前は奈津子という。

彼女は経済的に恵まれているが、体が不自由であり外出するのも気が滅入るため好まない。それでも性へのあこがれは持っていた。

 

彼女はほぼ毎日来てくれる女性ヘルパーから話を聞いて、出張ホストを呼ぶ決意をする。かくして障害者割引のある出張ホストを使い始めた。週に1~2度の利用だ。

奈津子さんはこの出張ホストを喜んだ。ホストは彼女の障害ではなく彼女自身を見てくれたからだ。彼女は彼に恋をしているが、成就は諦めている。自分が彼にしてあげられることが何もないからだ。だから、結婚は諦めている。

 

女性障害者は「女性」と「障害者」という二重の差別を受ける。だが、女性にも性欲はありそれを満たす存在が必要ではないかと女性へのセックスボランティアの試みがあった(要約としては割愛)。

 

この章が一番泣きそうになった。

まず、この奈津子さんが外出しない理由だ。

 

さらに、体力的なことだけではなくて、精神的にもあまり外出は好きではない。外に出ると、思わず目をつぶりたくなる光景に出くわすからだ。

「諦めないといけないことが多いのが障害者です。外に出ると悲しい。同じ年齢の女性がキレイな服を着て、歩いている。私は足が悪くて、オシャレもあまりできない。どうして自分はこんな容姿なのかと悲しくなる。食べ物でも味を一生知らなければ、その味を求めて苦しむこともない。性のことも自分とは別の世界のことだと諦めていました」

セックスボランティア」P101より引用

外出すると自分以外の女の子がみんなオシャレをしているって結構キツイと思う。特に容姿を気にしちゃうもんでしょ。女性でも障害者でもないけど共感してしまった。

 

結婚を諦める姿勢も読んでいて辛くなっちゃった。淡々と自分が結婚を諦める理由を述べているけど、裏だと葛藤があったんだと思う(完全に想像)。それでも愛している人に負担をかけたくないっていう気持ちがある。愛しているが故に結婚できない、自分の気持ちに素直になれないのは胸が苦しくなった。

 

彼女が爪の手入れにこだわるのには理由がある。

「彼が最初に来たときに、『爪きれいだね』って言ってくれたんです。それがとっても嬉しかった。生まれてはじめて男性からきれいだと言われたんです」

セックスボランティア」P105より引用

きっと外出するたびに自分と他人を比べていたであろう彼女からすれば、どれほど「爪がきれい」という言葉に救われただろうか。男性を知って良かったと心から思ったはずだ(またまた想像)。この爪の件はホントに泣きそうになった。

 

最後に

多分第5章以降で取り上げられている障害者の性を取り巻く環境やオランダの事情にも触れるべきなんだろうけど、手が疲れたのでこの辺で辞める。

 

障害者の性を外野からあーだこーだ言うのはまだ私の視界に入ってくるが、当事者の話は聞けることがほぼない。貴重な書籍だ。

 

セックスボランティアの成立には感情を抜きに語れないと思う。

まさしく愛が邪魔であり、それでも必要とされている。この記事ではあえて「性愛」という言葉を多用したが、障害者が満たされるには性と愛の両方が満たされる必要があるのだ。文章に書き起こしてみると当然のことだ。健常者も障害者も変わらない。

 

それでもボランティアとしては愛まではあげられない。本当は障害者も愛のあるセックスをしたいというのが引用した第2章の葵さんの言葉が示していると思う。

こんな感じで読んでいると、冒頭に言った性愛に対する姿勢を考えさせられる。

 

今までいろんな本をこのブログで触れてきたけど、これはその中でも最も感情に訴えるものだった。