こんばんは。
先日インフルエンザに罹ったという話はしたと思う。
1か月くらい前のことなのに鮮明に覚えているのは初めてのインフルエンザだったからだろうか。
インフルエンザから復帰した日のことを思い出したので書きたい。
その日はインフルエンザに罹って以来初めての職場復帰。念のためマスクをつけていった。
机の上に仕事が溢れかえっているかと思いきやそんなことはなく安堵していたのだが、メールボックスみたいな隠れたところに仕事が隠れていた。普通に仕事溜まっているな。
その日は終業時間後にあるおばちゃん社員にちょっとしたことを相談していた。聞いたのは生理不順について。念のため言っておくが、私の生理が来ないわけではない。私は男だ。
ある友達に生理が来ていないという話をしていた。そしてその友達が彼氏と別れそうになっている。
その友達いわく、妊娠しているか不安なのだそうだ。ならば性行為のときにも万全を期すべきだろうと思うのだが、それを言うことには意味がない。
とまぁそういう類の話をそのおばちゃん職員にはいろいろしてきたのだが、まさか全く赤の他人の妊娠の相談まですることになるとは思わなかった。
※後日談だが、妊娠はしていなかったし無事復縁したようだ。他人事ながら安心している。
そんな話をしていたらふと彼女は「人のために相談に乗ってあげてるなんて、いつかきっと君にも良いことあるよ」と言った。今までだったら相談に対応するだけで、私を励ますような言葉は出さない(当たり前だ)。どうやら病み上がりだったからサービスしてくれたらしい。
そしてそのサービスとやらは確かに私に有効だった。そういった相談を友達からされることに疲れを感じていたからだ。
きっとこの「いつかきっと君にも良いことあるよ」というのは、私に必要な言葉だったのだ。私は必要とすら意識していなかった。相談対応に対する疲れは自覚できていたが、その裏にあった他人と自分を比べてしまう気持ちに気付いていなかった。
しかし、「いつかきっと君にも良いことあるよ」という言葉はそれをも包みこむ言葉だった。
このような、本人が自覚していないけどその人にとって必要なワードっていうのはなかなか投げられるものではない。正直たまたまなんだろうけど。
この経験を通して感じたのが、「自分の欲しいものは果たして自分に必要なものか」一旦立ち止まって考えるべきということだ。と同時に、相手が欲しいものを与えるだけで良いのか?という疑念も感じた。
もっと簡単に言い換えると、夜に「動画を見たい」と思っていても、翌日の仕事に備えて寝ることが必要だったりする。私は動画視聴ではないが、夜にやりたいことを優先して翌朝の仕事で死んだ目になっていることもある。
それら決断をしっかりできるように、流されないように、見極める力と意志力を鍛えておくことが大事だ。
他人から相談されたり依頼されるときはもっと深刻だ。何が本当に必要かなんて、自分のこと以上に分かりにくいものだからだ。
だから積極的にコミュニケーションをしていくしかない。
「○○をしてほしい」と言われてそれをそのままやるのではなく、相手に煙たがられそうでもなぜそれをやる必要があるのか聴くべきだ。
相手にとって「欲しい」=「必要」とは限らない。そこを見極めなければ双方にとって損だ。
でもね、欲しいものをあげるのが一番喜ばれるから難しい。好かれたいなら相手の欲しいものをあげるべきなんだろうけど、それが相手のためにならないときはどうしたらいいんだろう。
よく分からない。
例によってオチはない。