正しい年の取り方

人生に迷うアラサー男が年相応になるまでの雑記

人間関係は選べる時代だけど、好きに選んでいいのかな?

SNSとの付き合い方は難しい。

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SNSって誰とでも繋がれるツールだから、使いこなせれば世界が広がるんだろうなーと思っていた。しかし、そうではないのではないか、逆に世界を狭めているのではないか?というのが最近抱いている疑問である。

 

技術や社会が進展しても、いや、すればするほど世界が狭くなってしまうのではないか。そしてそれはSNSの世界だけではないのではないか。

 

前々から思っていたことではあるが、今回記事にして書こうと思ったのは↓の記事を読んだからだ。

plagmaticjam.hatenablog.com

 

今回の記事ではそう思う理由を中心に主観強めで話したい。あ、上の記事内容には大きくは触れないので悪しからず。

 

今回の記事の要約

・今は人間関係を選べる時代で、その選択肢は多い。

・現代はお金や時間というリソースをどう割くか考える時代。リソースには限りがあるということに気づいたために、旧来の人間関係についても割く/割かないを考える。

・社会の進展はその実、コミュニケーションの幅を狭めているのではないか。我々はどう人間関係を構築していくべきか分からない。

 

人間関係を選ぶ時代を生きている

今と昔を比較してみたい。

 

昔(昭和ぐらいをイメージ)は下手したら携帯もなく、連絡手段が乏しいから新しい人とのつながりも発生しないという状況だった。

今は連絡手段・移動手段も豊富で、コミュニティも増え、人と出会うための土台になるものは整備されている。

出会う人の種類は増えた。

 

特に大きいと個人的に思っているのがTwitter(厳密にはミニブログらしいが)のようなSNSだ。情報伝達の技術が発達したおかげで生まれたわけだが、これが素晴らしい。

 

SNSとは会員制のサービスで、様々な会員と交流を持つことができるプラットフォームだ。ユーザーは世界的に存在し、自分からアクションを起こせば交遊を持てる可能性がある。

さすがに海外の方とまでつながったことはないが、自分の住んでいる町から遠い人とつながって情報共有できたりするのはSNSのおかげだ。

始めた当初はSNSを使って新しい情報を集めていこうなーんて思っていたのを思い出す。

 

ただ、ユーザーがとても多い、いや、多すぎる。

SNSを除いた人間関係を家族、友達、仕事関係くらいとしよう。

それに比べてSNSや他の媒体を介して出会う人間は多い。

自分からアプローチできるということは、相手からもアプローチできるということ。

どうしても付き合う人間は選ばなければならない。

誰をフォローして、誰をフォローしないのか。

 

昔は家族、友達、仕事関係くらいしか人間関係がなく、選べるようなものではなかった。選べないストレスはあるものの、選ばなければならないストレスはない。

今はSNSもそれ以外も含めて選択肢が多い中から選ばなければならないのだ。

 

ではみんな何を基準に付き合う人間を選んでいるのだろうか?

 

リソースの分配

基準になっているのはお金や時間といったリソースだ。これを割いて良いか/ダメかで判断していると思う。少なくとも私はそうだ。

この人のツイートを見たいか(見る時間を割いて良いか)、この人との私的な付き合いを進めるべきか(一緒にいて金銭的に無理がないか)などといった具合だ。

 

繰り返すが、昔は選べるほど人間関係は多くなかった。

リソースの割く先も少ないということ。だからリソースを割いたあとでもまだ余裕が残っていた。リソースというものに対して無自覚な人が多かったのではないかと思う。

おおらかな時代だと思う。

 

現代は選べる(選ぶ必要がある)ために多くの人がリソースに限りがあることを意識するようになったのだろう。

近頃話題になった忘年会スルーも一緒で、要は仕事関係の人にリソースを割きたくないと思うのだろう。

余裕がない時代だと思う。

 

個人が持つリソースって増えてるように思えなくて、使い道が増えただけなんだよね。だからシビアになる。

 

喩えるなら

”昔は年収800万円で子供1人だけ育てて余裕があったからお金に無頓着だったけど、今は同じ年収で子供2~3人育ててるからお金の使い方に厳しくなった”

みたいな感じ(なんか違う気もするが)。

 

あと、忘年会スルーの例に見るように、昔から存在していたような人間関係の在り処もSNSと同様選ばれるようになったということもわかる。

SNSだけじゃないんだよね。誰もが選び、選ばれる側なんだよ。とにかく、この人にリソースを割いてもいいのか?という視点が人付き合いを選ぶ基準のひとつになっている。

 

社会の進展

リソースを割く先が増えたのは社会が進展したからだと思う。社会とは共通項を持つ人間が集まった集団だ。それらが出会いやすくなったのは進展だろう。

上で、その集団(あるいは人)にリソースを割けるかどうかが人付き合いを始める基準だと述べた。

共通項を持つもの同士が出会いやすくなったが、逆に言うと、自分が関わりたいと思う集団(相手)しか関わらなくなってしまった。

Twitterでは興味のあるアイドルや将棋指しだけフォローするし、政治に関することを発信するアカウントはフォローしていない。

 

これが冒頭で述べた世界が狭くなるということだ。食べ物がズラリと並べられていても好きなものだけ食べて嫌いな野菜は食べないような。

 

どうも思想が凝り固まる。

出会う人間の幅が狭いという点では昔の選べなかった時代と同じなんだけど、現在は選べるようになったのに狭いままなんだよね。自分で狭くしちゃっている。これでいいのかな?その方がストレスもないし楽なのはわかるんだけど……。

 

と、ここまで至って冒頭で言及したメロンダウトさんの記事に至る。

 

だけど仮に全員が孤独に生きてもかまわないように社会がデザインされた場合、どれほどの人が不確かな他人と関わって生きることを選ぶのだろう。

そういう自由が実装できる社会になった時に僕たちははじめて自由の代償を知ることになるのかもしれない。みな孤独で重力がかからず腐った顔で凝り固まった考えを持つかもしれない。その時に不自由こそが大切だったなどと言われるようになるかもしれない。しかしその時にはもう不自由することができないほど自由になっているとしたらそれは天国なのか地獄なのかそんな無駄なことを考える。

https://plagmaticjam.hatenablog.com/entry/2019/12/28/211237?_ga=2.195829868.1723830130.1577789958-485612167.1568452087より引用。

なんかもうそうなりつつあるんだよね、私個人は。

このままだと人と深く付き合っていくのが無理な気がする。

 

だから選びたい人間関係に終始するのは良くないんだろうと思う。自分の身に刺さるようなことを言う人とも付き合いを残しておかないといけないのかもしれない。

……考えても今後人間関係をどうすべきかなんて、答えがない気がする。

 

例によってオチはない。