正しい年の取り方

人生に迷うアラサー男が年相応になるまでの雑記

ソフト指し論争は終わらない

 こんばんは。

 

昨日からある将棋YouTuberがソフト指しの疑いをかけられているといった内容のツイートがTwitterのTL上によく流れてくる。いつぞやもこんな出来事があった気がする。そう、あれは数年前……あれ、もしかしてタイムスリップしてる!?

 

 

まぁタイムスリップしているわけがない。歴史は繰り返すとは言うけど歴史短すぎない?

この件について私の意見としては

そういった疑いを呼ぶようなものは人前で口にしない方がベタなのではないかと考えている。実際自分が口にするかどうかは置いておいてね。

 

今回の件全体まではさすがに何も話せないのだが、この記事ではなぜ人は少ない情報で他人を疑ってしまうのかについて軽く考えたい。

 

そもそもソフト指しとは何か

ここから先の話をより具体的なものにするために「ソフト指し」とは何なのかを先に述べたい。ソフト指しとは将棋界の用語で「対局で将棋ソフトを使って局面の最善手を選び指す(実行する)こと」である。

将棋ソフトは将棋で使うAIと思ってもらえばいい。これがまたとんでもなく強い。

将棋のプロ棋士ニコニコ動画の企画で将棋ソフトと戦ったのを覚えている方はいるだろうか?結果は将棋ソフトの勝ち。

 

人間たちは屈服させられた。

 

今や将棋界ではもちろん一般の将棋になじみのない世界でも将棋ソフト>人間という図式は頭の中にこびりついている。

 

それまで「将棋ソフトなんかには負けない!」なんて女騎士ばりに言っていた人間たちが手のひらを返して「負けましたぁ♡♡♡」と言いながらペチンペチンとソフトにご指導いただく時代になったのだ。

こうして将棋ソフトに教わる時代になったのだが、ここまで強い将棋ソフトだ、悪用する人間が現れた。それがソフト指しを行う人々だ。

教わるまでは良いとしても実戦でそれを使うことはタブーとされている。

それがなぜかは人によって意見が変わるが、私はこう考えている。ソフト指しをされるると、人間同士の勝負がしたい人にとっては時間の無駄でしかないからではないか。

 

で、そのYouTuberは過去の棋譜(将棋の指し手の記録)からソフト指しをしたのではないかという疑惑を持たれたらしい。

 

このソフト指しというのは本来疑う側も疑われる側もシビアな問題である。なぜならば明確なソフト指しの基準がなく、どちらも確固たる証拠を示すことができないからだ。しかし、ネットの世界ではなぜか疑う側の方の声が大きくなる。これはなぜだろう?

 

なぜ人は疑うのかが気になった

正直、この件について言及している人の中できちんと情報を追い切れている人は何割くらいいるのだろうか?むしろ、周辺状況もろくに調べずまとめサイトやツイートを流し見して一言申したくなっている人が大半ではないだろうか?

 

使い古された言葉だが、確証バイアスが効いていると思う。つまり、疑いたい人が疑うに足る証拠ばかり目に入れてしまっている。例えそれが証拠としては力の弱いものだったとしても、有力な証拠候補として情報源にする。それをもとに一言申す。

その一方、疑いを晴らそうとする声は耳に入らない。

バイアスは意識して抑えることができても取り除くことはできないのだから、デフォの気持ちでいたら疑うに足る証拠を探すようになるのは分からないでもない。

でもこれって言い換えると疑う気持ちがデフォルトってことじゃない?

 

ではなぜ疑いたいと思ってしまうのか。

今回のYouTuberを疑ったところで誰の得にもならない。

 

それでも疑いたくなるのは疑ってしまう人が自分に自信がないからではないだろうか。

人間心のどこかでマウントを取りたいと思う生き物だ(と私は思っている)。

 

今回のYouTuberは大体の人より将棋の実力は上だ。そんな人の実力が実はソフトに支えられたハリボテだと知ったら弱い人はどう思うだろうか?

「自分のところまで降りてきた、しかも欺瞞のもと背伸びしていたクズだ」と無意識に思ってしまうのではないか。これほど叩きがいのあるサンドバッグもなかなかない。

 

別に棋力じゃなくてもいい。再生数でお金が入っているならそれを妬ましいと思う人もいるし、承認欲求を満たせない人はそのYouTuberを見て心のどこかで羨ましいと思っているかもしれない。

そして、そんな彼(彼女)よりも上に立てるチャンスが来たのだ。「乗るしかない、このビッグウェーブに」ってな具合にね。

でも自分に自信があったらそんなことする必要もないし、自分に実害のない不正をどうにかしようという暇すらない。

 

自信が持てないままに、どこかで他人と自分を比較し続けている。そんな人間だからこそ他人に対する疑いを持ってしまうのではないだろうか。

 

その意識を下支えするのが「疑う派が他にもいること」だ。「自分だけじゃない、同じように疑う人がいる」と考える自信のない人がいるから疑う派の声がどんどん大きくなっていく。それが多数派ともなればなおさら疑うに足る状況になる。疑いが疑いを呼んでいるのかもしれない。

 

想像ばかりで可能性を示唆しただけだが、私なりの考えだ。

ただ、やはりこれだけでは足りない部分があると思う。

 

 

最後に

今現在疑われている人が、その辺で流れる単なる発言、感想のせいで別の人からも疑われやすくなることはあると思う。

疑いは一度生まれると完全には死なない。

 

疑うまでは良いとしても、それが発言により拡散し、広範囲の人に知れ渡るから、やっぱりSNS・ネット社会は難しい。

やはり、人前で疑いを誘うような発言はしない方が良いのは間違いないだろう。