こんばんは。
今私は他人の作文の添削を仕事として行っている。
自分で文章を書くよりも他人の文章を添削するほうが難しいと思っているのだが、その理由とどう対応していくべきかを考えてみた。
前のスピーチの仕方を教えるのもそうだけど、一体自分でも何の仕事をしているのかわからない。
何が難しいのか
3点挙げる。
①普段の自分の書く文体と異なる
このブログを読んでもらっているとわかるが、基本的に私は「~だ」、「~である」といった言い方が多い。対して「~です」、「~ます」の文体には慣れていない。文体の与える印象は結構大きいと個人的に思っていて、書き手のキャラ付けを担うものだと思う。このブログでは自分の思っていることを他人の意思関係なく伝えたいと思っている。ですます調を使った配慮はしない。
②本人の気持ち、思い入れを大事にしなければならない
文章の日本語としての誤り、文章の語順は直すことができる。しかし、その人のこだわりまでは直せない。正確に言うと手を入れていいかわからないのだ。
たとえばそれまでの文章や段落と関係ない、明らかにつながりを悪くする一文が入っていてもそれは簡単に消せない。仮に文章の構成として間違っていても、その具合の悪い一文こそが書き手のこだわりかもしれないからだ。
③加筆がしにくい
作文は指定字数に対してボリュームが多い / 少ないといった問題が出てくるのが常だと思う。特にボリュームが少ない場合、加筆しようにもそれが難しいのだ。
なぜなら本人でもない限り書き手と共有できている知識や経験に限度があるからだ。
たとえば表現上説明が足りていない箇所があったとして、話を膨らませる形で想像して加筆することはできない。事実や本人の考えと異なる可能性がある。
どんな書き手の添削がつらいのか
ここの関しては若干(というかかなり)愚痴である。自分にとってつらい書き手の特徴を2つ挙げる。
①思考をそのまま文章にするタイプ
特に大変なのは考えを、思考過程をそのまま文章にするタイプだ。例えば以下のような文章を書くタイプだ。例文を挙げると
「私は今日、ロフトで買い物をしようと思いましたが、たまたまそこで友人に会ったので、一緒にずんだシェイクを飲むことにしようと思いましたが、売り切れだったため、諦めることになり、残念でした。たまたま会えたのがうれしかったので、せっかくだから別のものを一緒に飲もうと思ったので、別のお店でタピオカドリンクを飲むことにしました。」
といった文章だ。例文がなぜか仙台仕様になってしまった点は気にしないでほしい。
読点が多く、一文が長くなりがちだ。しかも場合によっては次の文章にも同じ表現を言葉を変えながら行うこともある。一言で言えばくどい文章。
恐らく読点は思考の区切りを意味しているのだろう。一文一義を徹底させるべき。
②具体性がないタイプ
これは正直ブーメランでもあるのだが、書く内容に自分の経験がないため、政治家のマニフェストみたいな文章になっている人。経験を交えていないため、なぜその考えにいたったのかが表面的にしか読み取れない。
こういうタイプは書いてもらった文章を片手に直接ヒアリングしたほうがいい。
③文章を書くことを諦めたタイプ
(アカン)
書き手のタイプによらず対策は共通する
下の3つを原案作成時点で徹底してもらえば添削はしやすいはず。もちろん、原案を参考にヒアリングしながら添削するのが望ましいが。
①作文の着地点を明らかにする
読者や審査員が読んで、どう感じてほしいのかを詰めておくことで、指定されたボリューム内で書くべきこと、膨らませるべき内容がはっきりさせられる。
例えば労働に対する自分の考え方が変容したことを伝えて、読んだ人に同じように考え方を変えてほしいと思ったとき、重きを置いて書くべきは変わった後の現在の働き方だろうか?少なくともどうして変わったか、変わったときの周りの変化等優先的に膨らませるべき部分はある。
②自分の経験を盛り込ませること
そして膨らませるべきは自身の経験である。これがないと理屈だけを延々と述べ続けることにもなるし、具体性がないから響かない。できるだけ読み手(と添削担当者)が想像できるようにしないと、言いたいことがきちんと伝わらない。
③一文一義の徹底
技法にこだわらなければ一つの文章における意味は一つに収めた方が伝わりやすい。文章の書き方による解釈違いが発生しないしないようにすること。
①~③は最終的には書き手と景色を共有するために行うべきである。そうでなければ文章の無駄をそぎ落とすだけの添削しかできず、小ぢんまりとしたスケールの小さい劣化版にしかならない。添削は減らすだけでなく、加えるものでもあるべきだ。
なんにしても、その人にしか書けない文章があるのでそれを大事にすることはマストだと思う。